江戸時代のマーケティング

昔からマーケティングは
言い方が違うだけで存在していて、
大事なものだったんだなってわかったお話。

先日、東京に行っていた際に
電車の乗り継ぎで南千住駅に
初めて行きました。

どこに行っても事前にリサーチして
何か面白いものがあったら
10分でも時間を作って見に行きます。

今回は南千住駅から歩いて
3分くらいのところに
プロレスの神様 カールゴッチのお墓が
あると聞いて見に行こうとしたら、
駅を出たら正面に松尾芭蕉の像が・・・。

「奥の細道」のスタートは
南千住だったようです。

写真で芭蕉の向こうに見えるお寺に
ゴッチさんのお墓がありました。

でもこのお寺の墓地
そんなに大きくないのですが、
たくさんの見どころがありました。

吉田松陰のお墓や
鼠小僧のお墓、
昭和の大事件 吉展ちゃん誘拐事件の
吉展ちゃんの地蔵尊(お墓もあるようです)が
ありました。

そしてそこには
1774年杉田玄白らが作った
日本初の解剖書訳本「解体新書」を作る
きっかけとなった場所であるので
戦災を機に、解体新書の絵扉をかたどった
浮堀青銅板も展示されていました。

もう30mくらいの中で見どころ満載で
とても貴重な時間を過ごせました。

で、夜に家に帰ってから
奥さんが娘たちのために2年間買い続けた
マンガ日本史の杉田玄白を取り出し
読んでみたのですが、
もうこれがメチャメチャ面白かったです。

その中には興味深い話が載っていました。
(すみません、ここからが本題です。)

解体新書の元になった西洋医学書
ターヘル・アナトミアと
それまでの医学の常識であった
五臓六腑説はあまりにも
かけ離れていたこと、

翻訳作業がかなりの苦労で
なかなか進まなかったこと、

解体新書の翻訳者として
前野良沢は載っていないこと、

それは、2人の考え方の違いであり、
生き様の違いであったことなど
本当に興味深い話が多いのですが、

一番面白かったのは
当時、アルファベットを載せただけで
発売禁止処分になるような鎖国の時代、
杉田玄白は「解体新書」を出す前に
簡単なパンフレットを配って
幕府の様子を確認。

結果、幕府からのおとがめはなく、
パンフレットは大好評だったので
「解体新書」を出版したようです。

これって今で言うマーケティングですよね?
江戸時代にもそんな概念があったのかと
思うと、とても興味深いわけです。

そういえば、
こんな風にマーケティングの概念で
同じく、江戸時代に鰻屋さんから
「どうやったら鰻が売れるか?」と
相談された平賀源内。

「土用の丑の日に鰻を食べたら体にいい」と
今で言う宣伝コピーを出したら
平成の今でも言われるくらい
広まった話と似てたりするなとか思ってたら
杉田玄白と平賀源内は大親友だったと聞いて
スゴイな~と感心しました。

ちなみに解体新書の図版は
平賀源内の弟子が描いた話もありました。

マーケティングというと
難しい話のようにも思うのですが、
根っこはシンプルなものかもしれません。

いつの時代も素晴らしい発想があります。
いつの時代も意味のあるご縁があります。

私の人生も大なり小なり
意味があるとすれば、
それをきちんと形付けることが
人生の大きなテーマなのかもしれませんね。