「どう受け取るのか」を定義する大切さ

どう受け止めるのかは各々の判断。

無理強いすることはダメだとしても
自分が何を選んで何をヨシとするかは
時代が変わっても個人次第。

そんなことを思うときに
いつも思い出す話があります。

40年程前に漫画家古谷三敏さんが
書いた作品「寄席芸人伝」

明治大正昭和の各時代の架空の落語家や
寄席にまつわる話を書いたものですが
これが抜群に面白い。

40歳を過ぎた頃から
実際、寄席に行き落語を聞きだして
一層、面白く感じている次第です。

その中に「前座今昔 浮世亭喜楽」
というお話があります。

ネタバレで恐縮しますが、
簡単に説明したら
大御所になった気楽師匠が久しぶりに寄席に。

前座の若者を見て時代が変わったと感じ
昔の自分の前座時代を思い出しています。

きつく注意したらすぐ辞めるので
今の時代は失敗しても怒られない。
自分の頃は前座は1人で雑用に走り回るも
今は交代制で休憩時間もある。
前座の噺家が車を持っている など・・・
(でもこのエピソードも今の話でなく
昭和時代に感じているとすれば結局は
何も変わってないのかもしれませんね)

時代は変わったなと思っているけど
今の若い者が羨ましいのではなく、
みんなが叱って教えて育ててくれたとすれば
幸せな前座時代を過ごしたのは
あの子たちじゃなく自分なのかもしれないな。

こんなお話です。

一場面だけ切り取れば
注意されたり叱られたりしたことでも
それは老害だの、それはパワハラだのと
言う人もいるのでしょうが、

成長していく中で考えて
大きな視野で見てみたら
はたしてそれでいいのかな・・・
とか思ったりするわけです。

もちろんパワハラだのセクハラだの
モラハラだの肯定する気は全くないですが、
何をもってそう受け取るのかの
自分なりの解釈のラインは必要だなと思います。

自分の人生を振り返っても
若い頃に怒られたり注意されたことで
ありがたかったと思う事もありますから。

もちろん許せない事もありますけど(笑)。

「怒られること」と「叱られること」
ミソもクソも一緒にせず、
受け取り方と意味は違うことを
お互いが認識しあうことが
まず第一なのかもしれません。