これからの時代こそ「ウサギの生き方よりカメの生き方」

童話に「ウサギとカメ」というお話があります。

このお話は一般的には
「器用で足の速いウサギと
不器用で足の遅いカメがかけっこで勝負。
ウサギが油断して居眠りをして負けて、
カメが真面目にコツコツあるいて勝った話で
地道にコツコツ努力するこそ大切で
それで成果がでること」を教えてくれます。

もちろん努力することはいいことですし、
コツコツ頑張ることがなにより大事。
そのことに何も反論はありません。

ただ、このお話ってそれだけでなく、
目指しているものが違ったら
結果も変わってくるということも
教えてくれているのではないでしょうか?

ウサギはカメに勝つことを
比較して勝つことを目指していましたが、
カメはウサギに勝つということより
ゴールすることを目指していた。

ウサギの目的はカメだけど
カメの目的はゴール。
そう思って読んでみると
そもそも見えていたものですら
違っていたのではないでしょうか?

そして、このことは今の時代において
スゴい気づきを与えてくれています。

今までの市場、今までの環境では
我々はあくまで他と比較して
商品を選び購入してきました。

「こっちの方がオシャレ。」
「あっちの方が安い。」
「この中ならこれが一番いい。」

最終的な購入決断は今までと同じく
比較して決められるでしょうし、
そう変わらないのかもしれません。

ただ、これだけ情報が容易く手に入れられ、
youtubeや口コミサイトからは
専門家やユーザーからの情報もすぐ知れる。
しかもそのほとんどが無料。

そうなってくると他と比べてどうかより
そもそものそのモノの性能や魅力で
まずは候補の一つに絞り込めるようになり、
比べてどうかといった「相対的価値」でなく
そのもの自身の「絶対的価値」をもって
合理的に判断できるようになっています。

私たち世代ならモノが欲しいと思ってから
それを売ってる店に行き、
その店にある中から比較して
商品を選んで購入していました。

でも、今の世代の人は違います。
欲しいと思う前からでも情報を仕入れ
欲しいものが何か?
それはどこに売っているのか?をリサーチ、
その上で行くお店を絞り込んだ上で
その商品を購入するといった流れ。

お客さんから見て欲しいと思う商品、
いいなと思う商品がなければ
そもそもお客さんが目の前に
現れてすらくれないような
そんな時代になってきているようです。

もちろんブランドや人柄などが
全く消えることもないでしょうし、
購入のプロセスではこれからも
ずっと大事なものだとは思います。

でもその前の情報収集や
選択といったステップでは
何よりモノの「絶対的価値」がよくなければ
候補にすらいれてもらえないわけです。

とすれば童話のウサギのように
ライバルと比べて勝ち負けを競うよりも
カメのように自分たちでできること、
自分達が信じて目指しているものを
しっかりと作りこんでいくことの方が
これからの時代は大事になっていきます。

年齢的に頭が固くなり
保守的な発想になってしまいますが、
このあたりは現実を見て
柔軟に頭を柔らかくして
見たくないものも
見えていないものも
しっかり見ていけるようにしたいですね。

(5年前に出版された本
「ウソはバレる」より一部引用。
5年前に今の世界が見えていたかのような本。
目から鱗、気づきの連続でした。)

追伸

ちなみの真面目にコツコツ頑張ったら
どんな感じで成果がでるのか例え話。

毎年、前年より3%づつ成果を上げていけたら
毎年たった3%UPでも
24年後には2倍になっています。

仮に給料も3%づつ並行してUPしたら
23歳で年収350万円の人なら
47歳の時に年収が
710万円になっている計算。

捉え方は人それぞれですが、
家づくりのお手伝いを20年以上した中で
何千人って言う人の財布の中身を
見てきた私からしたら
47歳で年収710万円は凄い数字と思います。

真面目にコツコツと
毎年3%の積み上げを心がけるのも
ひとつの目標にしてもいいのかもしれません。

「子どもに伝わるのは、命令形でなく肯定形です。」

「子どもに伝わるのは、
命令形ではなく肯定形です。」

これは2016年の
日本教育大学院大学のポスターに書かれてた
谷野栄治さんの広告コピーです。

歳を重ねておじさんになってきた今、
親にもならせてもらったこともあり
本当にこの通りだなと思います。

先に生まれたというだけで
偉そうに命令してくる上司や先輩がいましたが
どれだけ正しい事言ってたとしても
命令形で言われたら
全然、心に刺さらなかったな。

「勉強しろ!」って言われるより
「頑張れよ!」って言われた方が
なんか勉強できたような気がします。

後輩や部下にも
「オマエも手伝え!」って言うより
「助けてくれてら嬉しい」って言った方が
全然、サポートしてくれたよな・・・。

娘達にも
「だらけるな!怠けるな!」って言うより
「それは父ちゃん、悲しい」って言った方が
思いがすぐ伝わるよな・・・。

結局は同じことを言ってるんだけど
伝わるスピードと気分の良さが全然違う。

目上の人や年上の人に礼を尽くすのは
当たり前だとしても
部下や後輩、年下にも礼を尽くすのも
大人の世界では当たり前だと思います。

 

キャッチコピーは、
たった一言で私に気づきをくれるので
時間があったら何冊も繰り返し
ふと目を通してしまいます。

さっき久々にそんな本を読みました。
そんな土曜日の午後でした。

コロナも少し落ち着いてきたかな・・。
このまま穏やかな日々に戻ってほしいですね。

「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」

数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う。

政治アナリスト伊藤惇夫さんの言葉。
数年前に偶然、ネットで見かけたときに
昔から胸でモヤモヤしていたことが
スッキリしたことを覚えています。

事実である以上、統計値は信用しています。

でも、数字の話を聞くときに
たまに感じていたあの違和感は、
統計値を都合よく利用している人や
それでお金儲けしている人の
話だったんだなと腑に落ちた時が、
私なりの気づきの時でした。

例えば、平均と言った言葉も
言う側と聞く側の定義がよくズレています。

聞く側は平均と聞いたらちょうど真ん中とか
一番多い層であると思いがちです。

でも、それは言う側のデータが
算術平均(合計数字の平均)なのか
中央値(人数のちょうど真ん中)なのか
最頻値(一番人数の多い層)なのかによって
感じ方は大きく変わりますよね?

平均年収とか平均貯蓄額の話の時に
よく定義がズレてて、言う側と聞く側の
感じ方が違うことが多かったりします。

これは平均と言う言葉の意味が
とても曖昧なことを利用して
種類の異なった平均を使い分けています。

私なりに定義が違うことで、
捉え方が大きく変わる話があります。
それは、離婚率の話。

これもどの意見が正しいかの議論でなく
言う側と聞く側の定義のズレが大きい。
(ちなみに私なりの解釈なのでご了承あれ。)

「夫婦の3組に1組が離婚している。」

そんな話を最近よく耳にしませんか?
確かに離婚される方は身近にもいますが
そんなにも今は多いのか?と思います。

これを平成28年のデータで解説しますね。

平成28年の1年間で熊本県を除く
46都道府県では、
婚姻届は62万531件提出されたそうです。
ちなみに離婚届は21万6531件提出されました。

1年間で出された届を元に計算すると
62万531件÷21万6531件=2.865…
よって、2.86組結婚して1組離婚する。
これが世間でよく言われる3組に1組が
離婚する話の根拠だったりするそうです。

「・・・あれ?」
聞く側の我々はそんな1年のみの数字で
判断するのではなく、
もっと大きな分母で理解してないですか?

ちなみに平成28年時点での
熊本を除く日本総世帯数は4994.5万世帯。
この時点で累計で考えたら
これだけの家庭の数があるわけです。

内訳
①夫婦のみの世帯    1185万   世帯
②夫婦と未婚子の世帯  1474.4万世帯
③単世帯        1343.4万世帯
④一人親と未婚子の世帯     364万   世帯
⑤3世帯          294.7万世帯
⑥その他          333万   世帯

③単世帯と④一人親と未婚子の世帯は
離婚がないので省きます。
すると離婚する可能性がある世帯合計数は
離婚数を分子と考えたら分母は3287.1万世帯。

ざっくり計算としても
21.6万÷3287.1万=約0.66%
⑥のその他の方を省いて計算しても約0.73%
初婚や再婚といったことや
何らか他の原因を含めたとしても
変わったとしても最大1%ほどでしょう。

と言うことは自分の周りで婚姻している世帯を
分母としたら1年間で離婚されるのは
100組に1組と言うのが事実。

過去の離婚した話も含めたら
体感する数字はもう少し高いでしょうが、
とは言っても3組に1組が離婚するというのは
かなり大げさなことが分かります。

全体的に把握すれば1%にすぎないことも
これで何らかのビジネスをしようとする人や
このデータを利用して何かを企む人は
3組に1組の夫婦が離婚しているだの
離婚率が33%といった表現になるわけです。

でも、この話って
数字の嘘は言ってないんですよね(笑)。

集めたデータを捏造するのではなく、
元々からこっちの意のままの集計になるように
意図して集計する相手を選び、
意図して集計する内容にしているわけなんです。

そう思うと、数字の話はなおさらですが
お互いがどういう条件で、
お互いがどういう定義で、
そのことを対話しているのかを
よく理解していないと
本来、自分が思っている理解とは程遠い答に
たどり着いてしまうことがあるわけです。

数字は嘘をつかないが嘘つきは数字を使う。
事実を間違って理解しないためにも
気をつけていきたいですね。

追伸

最後に、こういった数字、データを
正しく理解するためにオススメの本をご紹介。

1冊は約50年前に書かれた本
「統計でウソをつく法」
もう1冊は2年前に出版されたベストセラー
「ファクトフルネス」
この2冊は面白すぎて、
しかもとっても為になる本なので
お時間ある方は是非読んでみてください。

自分が頭のキレた人になったかのように
錯覚できて、気分がよくなります(笑)。

「優しい言葉」

先日、ネットで見かけたお話。

90歳超えたおばあちゃんが
会う人に「お元気?」と聞かれるけど
この歳になったら元気な日なんかほぼないので
「お変わりないですか?」って
聞くようになったとの話に
それを読んだ他の方が、
「その言葉は優しい言葉でいいですね。」と
コメントされてました。

「元気にしてる?」とか
「頑張ってる?」とか
浪花商人テイスト満載な聞き方で
「儲かってまっか?」みたいな挨拶もありますが

それらは、どこか押しつけがましいような
時としてガサツな感じもすることを思えば
確かに「お変わりないですか?」って言葉は
相手にしてみたらとても優しくて、
労わりのある言葉だなって思いました。

そんな話を読んでたら
自分のおばあちゃんのことを思い出しました。

11年前に90代半ばで他界。
最後の10年ほどは痴呆もありましたが
赤ちゃんの頃から随分、
可愛がってもらいました。

私も大きくなり学校を卒業し、
就職してからのこと。
実家から車で1時間半ほどの距離なので
お盆やお正月に会いに行っていました。

就職してから他の人に逢えば、だいたい
「仕事頑張ってるか?」とか
「社会人はどうや?」とか
言われることが多く、その都度
「わからないことがまだまだ多いな。」とか
「仕事って大変やけどボチボチやってる。」
といったように答えていました。

「そうか、頑張れよ。」みたいな話で
やりとりが終わればいいのですが、
だいたい、その後いつもくっついてくる
「若造はそれが当たり前」
「グズグズ言わんとやったらええねん」的な
偉そうに言いたいだけの大人の言葉が多くて
何か違和感と言うか、
嫌な感じが多かったように思います(笑)。

そんな中、そのおばあちゃんは
「仕事がどう?」とか「大変か?」とかでなく
「周りの人に可愛がってもろとるか?」って
いつも聞いてくるのでした。

「うん、可愛がってもらってるで。」と言うと
「そうか、そうか。それはよかった。
周りのみんなに可愛がってもらって
仕事を覚えていけよ。」と言われることが
なんかいつも暖かい気持ちになって
嬉しかったことを思い出しました。

そう言えばおばあちゃんは
私が大学生になって一人暮らし始めてからも
「ご飯、食べとるか?」しか聞かなかったな。

そんなおばあちゃんの言葉に
何だかいつもホッとしていたような気がします。

自分が社会人になった時の
支店長の年齢に今年なることを思えば(笑)
今はもうおばあちゃん側の立場・・・。
娘も春から中学生になりますし、
親としても意味のある言葉がけができるよう
日々の自分を改めて気をつけないといけません。

「許すこと」と「甘やかすこと」の意味を
履き違えないようにした上で
次の世代に教えたり、伝えたりしていくとき
もし仮に厳しい内容や指摘だったとしても
「優しい言葉」で言える大人でいれるように
自分自身、気をつけていきたいですね。

昔の仲間や友人達にも
「お変わりないですか?」と労って話せるよう
今日から気をつけたいと思います。

「人を残すは一流」

昨年の2月11日に野村克也監督が
亡くなられて1年経ちました。
多くの実績を残された方でしたが、
多くの言葉も残された方でした。

その中で有名なものに
「金を残すは三流、名を残すは二流、
人を残すは一流」というものがあります。

この言葉も見る角度によっては
いろいろな解釈が生まれる言葉。
(ちなみにこの言葉は類似語も多く
二流の「名」は「事業」や「仕事」に置き換えて
言われている人も多いみたいですね。)

当たり前ですが、
人はまず「金」を稼ぐことを目標にします。

お金が稼げるようになったら次は
「名」を残すことを目標にします。

そして、その2つを達成できたときに
それ以上に「人」を育てることこそが
生きてきた証として、
最後の目標にするのかなと感じています。

年齢を重ね、経験を積んでいく上では
考え方も捉え方も変わって当然ですし。

その上でこの言葉を
私なりに解釈している見方があります。

この3つ全てを残したような
ごくわずかの例外な偉人もいるでしょうが、
どの道、この1つでも手にした人は
人生において成功者と言われています。

仮に、二流と表現されている
「名」「事業」「仕事」を残した人を
この3段階の基準としたときに、
自分さえよかったらいいと思った人が
「お金」だけを残したように見られ、
周りの人をみんなよくしようと思えた人が
「人」を育てられたと思われると
私になりに解釈しています。

「下が上を養うもの」と考えて
子分から尽くすことを要求する親分を
子分は世話になってても慕わないでしょうが、
「上が下を守るもの」と考えて
子に愛情を注ぐ親のことは
子は死んでも慕うことに似ていますよね。

以前にも書きましたが、
海賊の世界ですら成果をほぼ山分けにするから
子分は親分を裏切らなかった話も
こういった話の裏付けになるような気もします。

リーダーになり金も名声も得ると
傲慢になり欲深くなるのでしょうが、
値打ちや評価は他人がするもの。
自己顕示欲、承認欲求が強い欲深い人ほど
本当は歯を食いしばって、
人を育てたほうが満たされるのかもしれません。

噂ではあの世にお金とやらは
持ってはいけないようなので・・・・・(笑)。

「どうにもならぬ事など何もなかったのです」

コロナ緊急事態宣言も1ヶ月延長。
そう言えば、ちょうど1年前の今頃は
マスクの売り切れが始まったくらい。
1年経ってもこんな状況が続いてるとは
思ってもいませんでした。

オリンピックもどうなることやら…。
今更ながら一日も早い決断と対応を望みます。

こんな情勢なので友人たちも
メールや電話で連絡を取り合うくらい。
なかなか景気のいい話も少なくて、
お店をどうしていこうかなんて話になりますが、
元気だけは出してやっていこうって結論で
いつも会話は終わります。

先日、ふと聴きたくなって
仲井戸CHABO麗市さんのCDを聴いてました。

CHABOさんは
RCサクセションのギタリストで
故、忌野清志郎さんの盟友。
かれこれ30年間の私のアイドルの一人。
70歳になった今でも
精力的に活動をされています。

「ガルシアの風」という曲があるのですが
その曲にこんなフレーズがあります。

聞きようによっては究極の開き直りにも
聞こえなくもないますが(笑)、
どうしようもないことを
いつまでも悩み続けても
どうもできないのなら
その事実を見ないフリするのではなく、
受け止めた上で大人は
乗り越えないといけないなと
改めて気づかさせてくれます。

そう言えばブルーハーツも
似たようなことを言っていたな・・・。

どうにもならない事なんて
どうにでもなっていい事・・・。
ブルーハーツ「少年の詩」より

自分なりの答えを見つけようと
誰もがいつも答えを探し続けていますが、
結局は答えはどこかにあるのではなく
自分で作り出すものだと気づきます。

そんな時、答えはさておき
いつの時代も 気づくヒントは
本や音楽、映画、絵、劇など
芸術や文化の中にあると思ってます。

本屋やCDショップ、映画館、
美術館、博物館、演芸場などはもちろん
思い出の景色を見にあの場所に行くこと等
そんな機会こそ今、大事だと思っています。

コロナが落ち着いてそんな機会も
1日も早く元通りになりますように・・・。

ガルシアの風youtubeで貼り付けておきます。
よかったらどうぞ。

「名前がついて 初めて意識する」

「何事も呼び名がついてしまうと
人々は強く意識するようになる。」

落合博満さんの本を読んでて
何気に胸に引っかかった言葉。

名前が定義されることで
曖昧なものが明確になり
いいこともあれば悪いこともある。

病気なんかがその最たるもの。
呼び名ができることで自覚もできるけど
おおげさにしなくていいときでも
体が悪いことにされてしまうのも
どうなんだろう?と思います。

外国人に「肩こり」の人がいないと
聞いたことがあります。

でもこれは「肩こり」が
日本人特有の症状でなく
海外には「肩こり」に変わる言葉がないので
自覚できないからだそう。

日本に来て「肩こり」という言葉の存在を知り
「肩こり」の症状を認識した時に
外国人の中にも「肩こり」に悩まされる人が
生まれてくるようで、
なんとも興味深い面白い話。

日々の生活でもそうですよね。

呼び名ができることで早期発見ができ
自己確認ができることもありますが、
わざわざ呼び名をつけることで
不安にさせて何かを売り込んでくるような
悪意ある人も結構いますから・・・。

またその相手が善意と思いこんで
断っても売り込んでくるときに
一層めんどくさいことにもなりがち(苦笑)。
(親戚のおばちゃんに
こんな人いたら困りませんか?といえば
ニュアンスが伝わりますかね(笑)?)

例えば、〇〇ハラスメントという呼び名も
悪意ある人間から身を守る為のものや
ルール違反する人への対抗であればいいですが、
果たさなければいけない責任を
果たせないときの正当化や言い訳になると
言葉だけが独り歩きして
ややこしい感情論だけになるような気もします。

とは言え、定義やルールは言葉にしないと
お互いが意味を意識しにくいので
きちんとしたほうがいいと思いますが、
誰かだけが得をするような
偏ったものにはならないようには
気をつけてやっていきたいものですね。

「心技体」の「心」とは「お手本になること」

ここ2~3年、娘達のピアノの発表会に
行くことが増えました。

コロナの影響でコンクールは軒並み中止も
発表会のような形では開催されてます。
座席も縮小され、ドアは開きっぱなしで
冬場はなかなか寒かったりしますが。

小学生とは言え、演奏しているみんな
とても上手で感心しています。

自分が子どもの頃は暗くなるまで
外で遊んでいただけなんで
親子でも随分違うものですね(笑)。

ピアノを弾く娘を見て
親としてふと思ったお話。

大相撲の世界でよく言われる
横綱は「心技体」が揃って
備わっていなければならない言い伝え。

でもこれはどの世界にも言えること。
なおかつその世界のトップは
こうでなければいけないなと
ピアノ演奏を聞いている時でも
会社で仕事をしている時でも
なんらかの地域活動をしている時でも
感じる場面が多々ありますね。

辞書やネットで見てみると一般的には
「心」は精神力
「技」は技術
「体」は体力といった意味で
捉えられていることが多いようです。

でも「精神力」や「技術」「体力」って
抽象的で分かりにくいので、
もっと具体的な表現にした方が
自分自身も認識し、誰かにも伝えやすいので
言葉を言い換えてみます。

私は「心」は「お手本になること」
「技」は「日々勉強して練習すること」
「体」は「姿勢」
と置き換えるようにしています。

「技」は知識や変換力、
「体」は元気、佇まい、華
と言い換えてもいいかな?

ただ「心」は「お手本」以外の表現では
私は言いにくかったりします。

横綱でも最後に問われる「心」
強いだけじゃダメ、華があってもダメ。
お手本になるような生き様も
頂点なら兼ね備えてほしいといった願い。

自分だけが偉いと勘違いした人や
自分だけがよかったらいいと思う人がいると
組織って濁りますから。

例えばの話。

会社内で売り頭のトップ営業マンが
周りの人に自分の仕事を押し付けて
自分だけ先に帰る。
総務や庶務の人は自分の奴隷かの如く
利用や使用している。
「誰のおかげで飯が食えてる?」みたいな
態度で部下や他のスタッフに振る舞う。
何より自分だけはルールを破っても
結果出してたら出世していく社風。

こんなことは問題だらけの会社でしか
起きていないでしょうね。
そして、こうした会社の一番の問題は
キチンとやってきた人ほど辞めていくこと。

でも、そんな会社が未だに多いのも事実。

またそんな人を咎めない社長の場合も
スタッフは本当に先が見えなくなります。

とすれば「心技体」は
3つ揃ってこそ始まるとしても
組織が続いていき成長していく為には
「心」である「お手本になる人」が
組織にいなければいけないと思うのです。

ピアノ演奏も評価が「音」だけでいいのなら
ただ「技」だけの話で終わり。

生で演奏している姿も評価するのなら
立ち振る舞いや椅子の座り方など
「体」も見ないといけません。

でも「選曲」や「服のセンス」「練習態度」
「敗者を冒涜しない配慮ある喜び方」など
年齢的にも存在的にも
周りのみんなの上に立つ位置にいるのなら
「お手本となる」ような「心」の部分まで
審査する人には見てほしいと思う訳です。

人によってはそれを
妬み、僻みと言うかもしれませんが
「技」があるだけで勘違いして
自分が万能の神になった偉そうな人って
嫌われ者しか見たことないので(笑)、

親としては娘達に
ピアノは「技」だけを習っているのではなく
「姿勢」と「お手本となる心構え」を
習っているのだと伝えてやりたいと思いました。

とは言え、私は音楽好きですが
「音感」も「音程」も全くない父なので
恥ずかしくて「技」は何一つ
教えてやれないことは
娘達には内緒にしておいて下さい(笑)。
ガハハ。

娘を持つ父親の独り言

コロナによる緊急事態宣言が再発令され、
オンラインによる業務の比率が高くなり
今年入ってからまた在宅ワークが増えました。

今日は土曜日なこともあり
奥さんも娘達も在宅しているのですが、
部屋にこもり仕事をしていたら
ノックして長女が入ってきました。

今春から中学生になる長女。
昨年末に採寸し購入した中学校の制服が
昨晩、宅急便で届いたのですが、
それを着て見せに来てくれました。

制服を着た我が娘を見て
涙がこぼれる親馬鹿な父ちゃんですが(笑)、
節目に娘の成長を感じられて感謝する毎日。

若い頃は大げさに思っていましたが
最近、西川きよしさんと比べても遜色ない
涙もろい感激屋さんになってきています・・・。

欲張っていろんなことを願う時もありますが、
元気に楽しく学校に行ってくれたら本望です。

友達といっぱいおしゃべりしたり、
好きな男の子と一緒に学校から帰ったり、
一般的にイメージしがちな青春時代を
多いに満喫して欲しいなと願っています。

父親として何がしてやれるのか
考えだしたらキリがないですが、
以前にも書いたことのある「無条件肯定」

無条件でただ愛してあげること、
日々の行動と日々の言葉できちんと
愛情を伝えてあげたいですね。

娘とは世代も大きく離れて、
価値観も考え方も全然違います。

娘たちはいわゆる「Z世代の最後」
(Z世代は1995年~2010年生まれの世代)

自己承認欲求と発信欲求が強く
過剰な自意識を持ちつつも
不安や競争は好まない世代。

新型コロナにおいての不安や怒りは、
米のZ世代は「政府政治批判」に向かうも、
日本のZ世代は「貯蓄志向安定志向」に
向かうような傾向があるようです。

こういった背景も認識しながら
少しでもヒントになるアドバイスが
父としてからだけでなく、大人として
人生の先輩として、できたらいいな・・・。


また、父親として愛情を娘に伝える言葉は
黒川伊保子さんの言葉をお借りして
私なりの言葉で伝えていこうと考えています。

黒川さんの言葉を最後に紹介しておきます。

「何かに勝たなくたって、
誰よりも優れていなくたって、
きみはきみでいればいい。
きみが笑えば、
お父さんは生きる力をもらえるんだ。
そのことにうんと価値があるし、
その価値をお父さん以上に
わかってくれる人たちに、
君はきっと出逢える。
人生とは、そういうものだよ。」

黒川伊保子「娘のトリセツ」より

「中途半端な正義感が話をややこしくする」

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

コロナウイルス感染者が増加して昨日、
東京周辺に緊急事態宣言が再発令されました。
全国的にも追随していきそうです。
コロナももうすぐ1年が経とうとしています。
そろそろ騒ぎも落ち着いて、
元の生活に戻って行ってほしいですね。

コロナに限らずですが、
世の中をいろいろと見ていると
話をややこしくしているのは
いつも誰かの中途半端な正義感な気がします。

「中途半端な正義感が話をややこしくする。」

この言葉は、敬愛するミュージシャン
HEATWAVEの山口洋さんの歌詞からの
抜粋なのですが、
14年前に発表された曲を聴いたときから
ずっと胸に張り付いています。

いろんなイザコザや争いを聞くたびに
いつもややこしくなる根っこは、
これなんじゃないかなって気がしています。

また、答え無き論争になればなるほど
ある正義の反対は、
また別の正義だったりするので
もめるのでしょうが・・・(苦笑)。

答えはいつも正義であることが
望ましいとは思っていますが、
仮に答えが不義や不正であったとしても
メーター吹っ切るくらい突き抜けてたら
事は落ち着き、治まるのかもしれません。

どっちにしても中途半端さが
話をややこしくするのなら
まずはこっちに進むって決めて行動する。
で、ダメなら早めに修正する。
これの繰り返しでしかないようにも思います。

答え無きものをノーミス、一発で
正解にたどり着こうとしても
それはかなりの難問です。
とはいってもいろんな意見がある中で
実行しないといけない時は
強力なリーダーシップが大事。

「人生はどの道、自己責任」が持論ですが
そろそろ各々の損得勘定は置いといて
「まずはあっちに進もう!」と行先を決める
そんなリーダーの意思、決意、覚悟は、
決めてほしいとは思います。

新年早々、熱く語ってしまいました。

1日も早く、落ち着いた生活になることを
心より祈念申し上げます。
今年も素晴らしい事がたくさんありますように。